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6)原山建郎のコラム

【原山達郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№178 『気になる日本語――同音異義語、異字同訓をダジャレ、謎かけであそぶ。』

2月13日(火)にアップした、連載コラム「つたえること・つたわるもの」№178 『気になる日本語――同音異義語、異字同訓をダジャレ、謎かけであそぶ。』
https://gomuhouchi.com/serialization/56913/をお届けします。
今回は、この5月に開講する文教大学オープン・ユニバーシティ(『たのしい日本語――おもしろ〈ことば〉その1 同訓異字、しりとり、回文(逆さことば)であそぶ』)、やはりこの9月に開講する『たのしい日本語――おもしろ〈ことば〉その2 オノマトペ、いろは歌留多、落語の謎かけ、サラリーマン川柳をたのしむ』の配布資料を作成しながら、その一部を4回にわたってピックアップした『気になる日本語』シリーズをお届けします。
第1回目は、『同音異義語、異字同訓をダジャレ、謎かけであそぶ。』です。
「同音異義語」とは、たとえば、「原稿・言行・現行・元寇・減光・玄光」など、日本語の「音読み」発音が同じで意味(語意)の異なる語のこと。「同訓異字」とは、「かえる(帰る・変える・返る・換える・飼える・代える・替える・買える・孵る)」など、同じ訓読みでも漢字が異なる語のことです。後半では、ダジャレ、落語の「謎かけ」など、おもしろい日本語の〈ことばあそび〉を紹介しました。

ところで、2016年9月に始まった、ゴム報知NEXT(電子新聞)の連載コラム(月2回)は、7年半となるこの3月いっぱいまで、№181をもって終了することになりました。今後は、いわば私家版として、№182から連載コラム「つたえること・つたわるもの」のPDFを、これからも皆さまにメール添付で配信してまいります。これまでのご愛読に感謝いたしますとともに、引き続きご愛読くださいますようお願いいたします。

コラムは☞ ダウンロード - 178.pdf

☆原山建郎☆ 健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№177 地名――大地に記された〈あしあと〉、語り継がれる〈ものがたり〉

1月23日(火)にアップした、連載コラム「つたえること・つたわるもの」№177 地名――大地に記された〈あしあと〉、語り継がれる〈ものがたり〉。https://gomuhouchi.com/serialization/56383/をお届けします。
今回は、松戸市図書館から借りた図書資料などを手がかりに、「地名の語源(はじまり)・由来(いきさつ)・変遷(これまで)・現在(いま)、・将来(これから)」について書きました。日本地名の多くは「漢字」で書かれています。それは、日本にまだ文字がなかった時代(上古代)から使われていた「やまとことば(話しことば)」の発音を、同じ音韻(発音)をもつ漢字を借りて、いわば当て字のように用いたもの(万葉仮名)でした。あまり漢字の語義(意味)にとらわれすぎると、古くから語り伝えられてきた「地名の語源(地形や地勢の特徴)」とは異なるとらえ方(意味)になるのではないでしょうか。
たとえば、本コラムでは紹介しませんでしたが、北海道の地名は「アイヌ語」の発音に、同じ音韻の「漢字」をあてる、いわゆる「万葉仮名」方式で、その地域の地名を表記しています。

★おといねっぷ〔音威子府〕北海道上川支庁中川郡の村名 記録:近世。成立:昭和38年。由来:大正8年からの字名による。宗谷本線の駅名も関係するか。語源:近世のヲトイネ(子)フに因む。原型のアイヌ語は、「オトイネフ(川口に泥の多い川)」という。/★おとべ〔乙部〕北海道檜山支庁爾志郡の町名 記録:近世。表記は大正元年。成立:明治35年。由来:近世の村名による。語源:アイヌ語の地名という。「オトぺ(川尻に沼のある川)とも、「ヲトヲウンぺ(沼のある所)」ともいう。
                       出展:『市町村名語源字典』58ページ

北海道の「地名」は、北の大地の「歴史」であると同時に、アイヌ「文化」を、「いま(現在)」につたえる〈生きたことば〉なのです。
今回のコラムには、かなり専門的な内容も含まれていますが、「大地に記された〈あしあと:記録〉」、「人と大地から語り継いできた〈ものがたり:記憶〉」を知る手がかりとしてお読みください。これも、本コラムには書きませんでしたが、2日に羽田空港C滑走路で起った日航機と海保機の衝突事故が、広い意味で「能登半島地震」の災害関連死に含まれると思ったことがあります。

本文は☞ 177.pdf

お時間のあるときにお読みください。

 

☆原山建郎☆ 健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」つたわるもの」№176 はじまり:由来 これまで: 変遷→いま: 現在 これから: 将来。

明けましておめでとうございます。
新年早々、一日に震度七の能登半島地震、二日に日航機と海保機の衝突事故など、大波乱の幕開けとなりました。今回の地震で亡くなった方々、海保機の亡くなった乗員の方々にお悔やみを申し上げます。また、地震で被災された皆さま、事故のあった日航機から脱出した皆さまに、心からお見舞いを申し上げます。
さて、1月9日(火)にアップした、ことし最初の連載コラム「つたえること・つたわるもの」№176をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/55970/「はじまり:由来→これまで:変遷→いま:現在→これから:将来。」

今回のコラムは、①高浜虚子の俳句、「去年今年貫く棒の如きもの」→「由来・現在・将来を貫く棒(時の経過)」、②松岡正剛の慧眼「生命の由来と将来」、③元日に配達された広報誌『いちかわ』に載っていた「市川の始まり」(地名の由来)、④明治初期に入植・開墾した北総(千葉県北部)の地への新しいネーミングなどのトピックを中心に書きました。
皆さまも、ご自身が住んでおられる土地、生まれ育った土地など、土地の名前の由来を調べてみてはいかがでしょうか? きっと思いがけないトレビアが見つかります。
お時間のあるときにお読みください。

本文は☞ ダウンロード - 176.pdf

☆原山建郎☆
健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」つたわるもの」№175(2023/12/26)エンゼルス(天使たち)から、ドジャース(ブルックリンの子ら)へ。

★12月26日(火)にアップした、ことし最後の連載コラム「つたえること・つたわるもの」№175をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/55910/エンゼルス(天使たち)から、ドジャース(ブルックリンの子ら)へ。


今回のコラムは、原山が選ぶ大谷翔平選手の「ことしのひと言」から書き始めました。WBCの決勝戦を控えたロッカールームでの「ひと言」たち――「憧れるのをやめましょう( Let’s stop admiring them.)」「憧れてしまったら、超えられない( If you admire them, you can’t surpass them.)」「きょう一日だけは、憧れを捨てて勝つことだけを考えましょう(For one day, let’s throw away our admiration for them and just think about winning.)」……大谷選手の「器」の大きさを感じます。
そのあとに、MLBの球団名(+本拠地の地名)の由来を紹介しました。

日本のプロ野球の誕生は、1934(昭和9)年11月に来日したベーブルース選手ら米国大リーグ選抜チームが全日本チームとの16戦すべてに勝利し、圧倒的な力の差を見せつけられた全日本チームのメンバーを中心に、同年12月、大日本東京野球俱楽部(現在の読売ジャイアンツ)が誕生したところから始まったとか。
そして、ことしは、あの二刀流の元祖ともいうべきベーブルース選手の記録を超えた、大谷翔平選手の快挙で締めくくった素晴らしい一年でした。

詳細は☞ 175.pdf

来年も、この連載コラムをお届けします。引き続き、ご愛読くださいますようお願い申し上げます。
☆原山建郎☆

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」つたわるもの」№174 「かなしみ」によりそう、「おもい」のちから。「大悲」は風のごとく。

 12月13日(水)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№174をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/55458/「かなしみ」によりそう、「おもい」のちから。「大悲」は風のごとく。
今回のコラムは、去る10月21日に開催された「第33回中原寺文化講演会」で、講師の若松英輔さんが、◆五つの「かなしみ」と◆十二の「おもい」という漢字をできるだけ書いてみてください、といわれましたが、恥ずかしながら全部は書けなかったことから、白川静の字書三部作のうち、字源辞典の『字通』と古語辞典の『字訓』を手がかりに、リターンマッチ(リベンジ)をかけたものです。これらの「かなしみ」と「おもい」、やまとことばの「かなし」と「おもふ」を書き出しながら、コラムのタイトル(前半)【「かなしみ」によりそう、「おもい」のちから。】をつくりました。

 文中に引用した『南無阿弥陀仏 付心偈』(柳宗悦著)の【悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈(いつくし)みでありまた「愛(いとお)しみ」である。】や、『大悲風のごとく』(紀野一義著)の【大悲は風のごとくに来(きた)る。われわれの気づかぬところから微風のごとく吹き起こり、空を渡り、いつのまにかわれわれをつつむのである。はじめその音は空しくきこえることもある。しかし、いつか、人は、空しさの奥に大悲が輝いていることを知るのである。流した涙がまことの涙であり、悲しみが純粋に深いものであれば、泣くということが泣くだけに終わることはない。】から、やはりコラムのタイトル(後半)【「大悲」は風のごとく。】が出てきました。

詳細は☞ ダウンロード - 174.pdf

お時間のあるときに、お読みください。

☆原山建郎☆

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」つたわるもの」 № 173 花びらは散る、花は散らない。散らない花を生きる、認知症の人の物語。

11月29日(水)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№173をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/55106/「花びらは散る、花は散らない。散らない花を生きる。認知症の人の物語。」
今回のコラムは、「認知症の人」の「身体拘束」は、「縛らざるをえない」と「縛ってはいけない」の是非を問う「二者択一」ではなく、認知症の高齢者介護を「ケア(気にかけて世話をする)」ととらえるか、「コントロール(制御・管理・支配する)」ととらえるか、「認知症の人」を介護する姿勢の違い――たとえば、「ケア(介護)」、「コントロール(制御)」、「ケアギバー(介護者)」――それぞれの言葉のルーツ、微妙なニュアンスの違いを考えるところからはじめました。
そして、前回のコラム№172でとり上げた『バリデーション』に書かれている【「認知症の人」の混乱した行動の裏には必ず理由がある】というナオミ・フェイルの仮説にもとづいた具体的なケア・テクニックの中から、「解決にいたる4つのステージの特徴」と「14種類のバリデーション・テクニック」を要約しながら紹介しました。
そして、今回のコラムの「花びらは散る、花は散らない。散らない花を生きる。認知症の人の物語。」というタイトルは、浄土真宗の僧侶、金子大榮さんが般若心経の「色即是空」を和訳した「花びらは散る、花は散らない」から、「認知症の人」が私たち(ケアギバー)につたえる、あるいは見せてくれる、世界に一つだけの〈いのち〉の物語なのではないか、と思ったからです。私はコラムの後半に、次のように書きました。
たとえば、「認知症の人」が〈生きてきた・生きている・生きていく〉世界に一つだけの物語を桜の花(花びら)だとすると、〈生きてきた・生きている・生きていく〉「認知症の人のいのち」は、そのおおもとの桜の樹である。毎年、春になると満開の桜が咲き競うが、やがて、その花びらは花吹雪となって舞い散る。しかし、翌春には、同じ桜の樹の枝から再び桜の蕾が膨らみ、あの美しい花を咲かせる。私たちは、もしかすると「認知症の人」を、そのおおもとの〈いのち〉である桜の大樹としてではなく、散りゆく桜の「花びら(身体機能や認知機能が衰えた状態)」と見ることしかできていないのかもしれない。

詳細は☞ 173.pdf

お時間のあるときに、お読みください。

☆原山建郎☆

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№172 「認知症の患者」ではない、「認知症の人」との超コミュニケーション。

11月14日(火)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№172をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/54695/「認知症の患者」ではない、「認知症の人」との超コミュニケーション。
 今回のコラムは、冒頭に『縛らない看護――「抑制」をしない、そこから「看護」がはじまる』(吉岡充・田中とも江編著、医学書院、1999年)の編著者のひとり、田中とも江さんの「序章 縛られているのは誰か」(抜き書き)と、医学書院発行の『医学界新聞』連載コラム『再考「身体拘束」』(聖路加国際大学名誉教授・井部俊子さん)の一部を紹介しながら、アメリカのソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルの著書『バリデーション』に収載されている「バリデーションセラピー(超コミュニケーション法)」のことを、かつて『トランネット通信』に寄稿した『医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ』(連載コラム「編集長の目」№133)の一部を参考にしながら、「認知症の患者(病者として扱われる人)」ではない、「認知症の人(その人の人生を生きている人)」との超コミュニケーション法について書きました。
 それは、たとえば、「私は、「あなたは縛られたいか」「あなたの親ならどうであるか」「あなたの子どもたちであればどうか」と問いつづけた、田中さんの看護のベクトル(目線)であり、あるいは、井部さんが『再考「身体拘束」』に書いた「身体拘束をしないことは目標(アプローチA)なのか、結果(アプローチB)なのか」を考える前に、私たちは、まず、「身体拘束(縛られる)」の対象とされる「認知症の人」は「何をしたい(されたい)のか」「何をしたく(されたく)ないのか」について、また、もうひとつ、「認知症の患者」ではない、「認知症の人」について、その「本当」の姿を「正しく」理解しなくてはならない、と考えたからです。
そして、『バリデーション』の中で、ナオミ・フェイルが、認知症の母親マーガレットと娘モリーに行った「バリデーションセラピー」のひとつ、「マーガレットのケース」は、認知症に対するナオミ・フェイルの仮説――お年寄りの混乱した行動の裏には、必ず理由がある――をみごとに実証した、感動的なエピソードです。

詳細は☞ ダウンロード -172.pdf

次回のコラム№173も引き続き、「バリデーション」をテーマに書いていきます。

お時間のあるときに、お読みください。


☆原山建郎☆

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」No_171 高齢者の自由と誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる――決意と実践。

10月25日(水)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№171をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/54154/
高齢者の自由と誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる――決意と実践。


コラムの冒頭でもふれましたが、3カ月前、東京・吉祥寺の絵本と児童書専門店『緑のゆび』の小さな集まりで、『遠藤周作の遺言――「病院はチャペルである」』について話をしたあと、参加者のお一人、吉岡充さん(医師、多摩平の森の病院理事長)から、『こんな介護がしたい――認知症の人との幸せ時間のつくり方』をいただきました。
私は以前から「認知症ケア」に関心を持っていて、かつてコラムを書いていた『トランネット通信』「編集長の目」№133『医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ』では、アメリカのソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルの『バリデーション』(藤澤嘉勝監訳、篠崎人理・高橋誠一訳、筒井書房、2001年)に書かれた「認知症に対するナオミ・フェイルの仮説」――私たち人間が人生の異なった段階を生きていくときに、それぞれの段階で解決しなければならない「人生の課題」があると仮定して、人によってはその問題を解決しないまま人生の最後を迎えることがある。そのような人は人生の最終章に、4つの解決のステージ、つまり①認知の混乱、②日時、季節の混乱、③繰り返し動作、④植物状態、それぞれの解決ステージを迎える――を紹介しました。
同書では、たとえば、感情的な対応になりやすい家族のケアギバー(介護者)には、「認知症の人」が生きる最終ステージを「共に生きる」覚悟が求められる。それと同時に、「認知症の人」が長い間、解決できずに積み残していた「人生の課題」が最後に解かれる瞬間を「共有できる」可能性もゼロではない。しかし、同書の訳者・高橋誠一さんは、認知症の人と「共に生きる」ことはなかなか難しいことであり、その理由は介護者自身の人生の課題でもあるからだと、次のように書いています。
この問題は答えがはっきりしている算数の問題を解くようにはいきません。なぜなら、問題の中に私たち自身が含まれているからです。それを解こうとしている自分を問題から切り離すことができないのです。結局、他人事のような解決は不可能なのです。ケアとはそもそもこのような性質をもったものなのだと思います。ケアをする人とケアを受ける人を分離することはできないのです。それでも無理をして分離しようとすると、ケアではなく仕事や作業として考えるしかありません。認知症の場合、ケアする人だけが主体となり、ケアを受ける人は対象となります。このような関係の中では、主体同士が共に生きるということは生まれないでしょう。
(『バリデーション』「訳者あとがき」315ページ)
前置きが長くなりましたが、本コラムの最後を、「認知症の人」が今まさに取り組もうとしている「人生の課題」をまっすぐ受け止め、そして「身体拘束をやめる」と決意し「新しい認知症ケア」を実践しながら〈心あたたかな〉まなざしで見守る「日本の良医(グッド・ドクター)」のお一人、吉岡充さんへの感謝の言葉で結びました。
いまから37年前(1986年)、吉岡さんの母校(東京大学医学部卒)である東大病院の「入院案内」が、作家・遠藤周作さんのアドバイスによって〈心あたたかな〉「入院のご案内」に改訂された、その同じ年に、吉岡さんが、〈高齢者の自由と誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる〉と決意し、高齢者としての生き方を尊重する、新しい「認知症ケア」をめざした道のりは、さきに鎌田實さんが提示したキーワード、まさに「あたたかで理にかなった」「身体拘束をしない」「新しい認知症ケア」の実践であるとともに、1982年に遠藤さんが提唱した「心あたたかな医療」キャンペーンの一翼を担う、力強い奔流のひとつとなっている。

お時間のあるときに、お読みください。

詳細は☞ ダウンロード - 171.pdf


☆原山建郎☆

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」」№170 〈カタカナ〉の身体感覚。明治~昭和21/昭和22~令和の〈カタカナ〉事情。

10月10日(火)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№170をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/53844/
〈カタカナ〉の身体感覚。明治~昭和21/昭和22~令和の〈カタカナ〉事情。

前回は、子育て講座での「あいうえお うた」(ひらがな詩)でしたが、今回は〈カタカナ〉の身体感覚について、谷川俊太郎の「ミライノコドモ」、まど・みちおの「フユノヨル」と「ちらちら ゆき」、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をとりあげながら、作品の〈カタカナ〉詩とそれを〈ひらがな〉詩に置き替えて(※その逆パターンもあります)、〈カタカナ〉詩と〈ひらがな〉詩の身体感覚の違いを味わってみました。
今回のタイトルを、明治~昭和21/昭和22~令和の〈カタカナ〉事情としたのは、明治からさきの敗戦まで、小学一年生の国語教科書の1ページ目が「サイタ サイタ/サクラ ガ サイタ」(谷川)、「ハタ、タコ、コマ」(まど)、「ハ。ハナ。フナ。ハリ。」(宮澤)であったように、すべて〈カタカナ〉だったことに注目したからです。
また、谷川は愛知県立大学の宮崎教授との対話(公開対談)で、「(谷川さんに)カタカナ詩はそんなに多くないですよね?」「カタカナとひらがなの違いって、創作されるときに何かあるんですか」と問われ、「ひらがなというのは、なんか日本語の昔のものを伝えていて身についてる感じがするんで、詩もできればひらがな的なもので書きたいというのがずっと底にあるんですよ」と答えたあと、さらに「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」みたいな感じは残っていらっしゃるんですかね?」と問われて、「意識はしていないけど、体に(※身体感覚として)残っているんじゃないですかね。」と述べています。
一方、戦後の国語教科書(小学一年生)は、たとえば「はい せんせい せんせい」「あさ あさ あかるい あさ」「きこえる きこえる なみのおと」(いずれも光村図書出版)のように、それまで(戦前)の〈カタカナ〉コトバではなく、まあるい〈ひらがな〉ことばで書かれています。それが明治~昭和21/昭和22~令和と区切った理由の一つです。コラムの最後を、次の「言葉・コトバ・ことば」で締めくくりました。

四角い漢語は象形(かたち)で〈意味〉をあらわし、とんがったカタカナ語は抽象的な〈イメージ〉をつたえる、まあるい和語(やまとことば)はこころの〈思い〉をとどけてくれる。

詳細は☞ ダウンロード - e28496170.pdf

お時間のあるときに、お読みください。

 

☆原山建郎☆

 

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№169 おとなのなかの〈こどもの宇宙〉、 「あいうえお」でつむぐ〈ひらがな〉詩。

9月26日(火)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№169をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/53519/おとなのなかの〈こどもの宇宙〉、「あいうえお」でつむぐ〈ひらがな〉詩。
今回のコラムは、10月2日(月)に開催される「子育て講座」(下里しおん保育園)のトピック(話題)をとり上げます。対象は保育園児の保護者(≒母親)ですが、その通知文を次のように書きました。
はるか昔、オノマトペ(擬声語・擬態語)から生まれた「日本語」の〈たまご〉は、10世紀(平安時代)に成立し、のちに手習いの手本(いろは順)となった「いろは」歌です。また、「あいうえお」は、15世紀(室町時代後期)の国語辞典(温故知新新書)に載った「五十音」が最初ですが、明治時代の教科書で現在の「五十音(あいうえお順)」がスタンダード(標準)になりました。この講座では、懐かしい「いろは」歌(いろはかるた)や、近現代の詩人、北原白秋、谷川俊太郎、まど・みちお、中川ひろたかの「あいうえお」歌を、保育園児、幼稚園児といっしょに声に出して読む「ひらがな」の詩を楽しんでみましょう。
今回の講座には、①日本語の〈たまご〉としての「あいうえお」を介して、おとなのなかの〈子どもの宇宙〉に出会う/②「あいうえおうた」の音読演習によって〈ヒーリング・リーディング(ライティング)〉をめざす、この二つの目標があります。
また、コラムではふれませんでしたが、年代的には「あいうえお」の先輩である「いろは(いろは歌、いろは歌留多)」についても、資料をもとにお話しする予定です。「いろはうた」といえば、幼少期の私は、その歌の意味も分からず、「いろはにほへと、ちりぬるをわか、よたれそつね、うゐの……」と覚えました。モーツアルトの子守歌も「ねむれよ、いこよ……」、春日八郎の「お富さん」も「粋な黒塀、見越しの松に」を、「いきな、黒兵衛(※やくざの名前?)、神輿(みこし)の松(※これもやくざの名前?)……」などと、歌詞の区切りや意味を間違って読んでいました。
「いろはうた」と「あいうえおうた」は、どちらも日本語(和語=やまとことば)の〈たまご〉です。

詳細は☞ ダウンロード - 169.pdf

 

お時間のあるときに、お読みください。

☆原山建郎☆

 

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